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安曇野で暮らす知恵

安曇野の水

堰(用水路)の歴史



米どころ安曇野では古くから新田開発のため、多くの用水路が作られ、今でも大きな役割を果たしています。古代・中世においては、穂高川や烏川の扇状地を利用した鳥趾状の水路が主だったものでしたが、それに直角に交わる条里型の水路開削が徐々に進められるようになってきました。
主な用水路としては新田堰(しんでんせぎ)、矢原堰(やはらせぎ)、勘左衛門堰(かんざえもんせき)などがあり、いずれも江戸時代の初期、1600年代に造られ、梓川、犀川、奈良井川などの取水堰から取り込まれた水は安曇野の平野部を流れ、多くの水田に水を供給してきました。


拾ケ堰(じっかせぎ)

安曇野の堰の中でも拾ケ堰は最大規模で、江戸時代後期の文化13年(1816)に開削された。幹線水路の延長は15キロメートル、ほぼ標高570メートルの等高線に沿って安曇野の中央部を貫いて流れ、高低差は5メートルほどしかありません。
 開削は、10カ村の農村の指導者によって立案され、工事は延べ6万人以上の農民が参加し、約3カ月の短期間に工事を終えるという、驚異的な事業だったのです。現在は、約1,000ヘクタールが灌漑(かんがい)され、安曇野の今日を築いた文化遺産である。また、農林水産省の「疎水百選」にも選ばれています。


新堀堰(しんぼりせぎ)

1861年、丸山伝右衛門らが先頭に立ち、延べ4万4千人の人足を用いて約1カ月を費やして掘り立て通水しました。三郷地域の住吉神社付近で温堰(ぬるせぎ)尻を取り入れて、標高600mの等高線に沿って流れ、堀金の田多井で堀廻し、烏川扇状地の扇央を横断して拾ヶ堰に流入します。

勘左衛門堰(かんざえもんせぎ)

勘左衛門堰は、江戸時代の1685年、成相組代官だった二木勘左衛門が奈良井川小麦淵(松本市島立)から取水し、梓川を横掘り(現在はサイフォンでくぐる)して開削しました。開削当時は、成相新堰と呼ばれていたが、拾ケ堰が開削されてからは勘左衛門堰と呼ばれるようになりました。幹線水路の延長は約10キロメートル、灌漑面積は約329ヘクタールで、扇状地の中央近く、万水川へ至ります。

新田堰(しんでんせぎ)

豊科熊倉で梓川から取水し、成相、新田地区を通り、万水川へ流れる。開削年は不詳ですが、矢原堰開削から25年後の1679年に水路改修が行わています。この改修当時は、平安時代からある真鳥羽堰の流末や余り水を利用していたが、ほとんど水は得られなかったため、新しい取水口を求めて梓川まで等高線沿いに横堰を築いています。ところが、梓川の水も上流で取られてしまったことから、そのまま梓川をせき止めて掘り進み、隣の奈良井川の水を引いたといわれています。

安曇野市ホームページ参照>>